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心の時間、和合のひととき

2019年8月28日

日々抱える悩みから頭と心が開放され、人間の最も奥深い本質と一体化する瞬間、それがまさに精神のためのひとときです。私たちが望みさえすれば、そうした時間はいつどこにいたって見つけることができます。例えば、夕方、仕事場を去る時にドアを閉めながら、普段の生活で考えなければいけないこともすべて扉の向こう側にしまってしまう、まさにそうした瞬間こそ精神を養うのに最適なひとときです。

歩いて家に帰っていれば、空を見上げたくなることもあるでしょう。無論、田舎で暮していれば、そうしたことは自然に起こりうることです。田舎暮らしができるというのは、実はとても幸せなことです。広大な田舎では、あらゆるものがより深く、柔らかく、そして穏やかに感じられるものです。夜空にまたたく星もより生き生きと映り、まるで星空の静かなメッセージが自分の耳元に届いているかのように感じられることだってあります。そうした経験を通じて、魂と向き合うひとときや果てしない宇宙の神秘性を直感することができます。

溢れんばかりの美しさに心奪われ、古城にそびえる高い塔の階段を駆け上り、もっと星に近付きたいと願うことだってあるでしょう。魅惑的なその場所で、一人だけの時間を過ごしながら自分自身と対話し、自らを再生することで、精神とその神秘的な意味に捧げる時間がいかに美しいものであるかをきっと鮮明に感じ取ることができるはずです。

時間はまるで夢の中での出来事のように、表面的な根拠を伴わず、物事を変容させます。理論で説明せずとも伝わることほど、素晴らしいものは他にありません。精神のためのひとときを過ごす時、私たちは新しい物事をより深く考察することができ、古い事柄もまた新たな視点から見つ直すことができます。悲しく感じていたことにも希望を見出せるようになり、さらに泥のように見えていたものだって月の下でまたたくダイヤモンドのように輝かしく見えてきます。

ゲーテは「時よ止まれ、お前は美しい」という言葉を残しています。またプラトンは、私たちの過去、現在、そして未来をすべて足し合わせた時間の永続性について弟子たちと論じていました。過去は思い出の王国、未来は想像の王国、そして現在は、まるで流れ行く川のようにつかむことができないもの。そうヘラクレイトスが考えていたように、誰しも二度と同じ川を下ることはなく、水のように流れ続ける存在なのです。

私たちもかつては子どもでしたが、その頃の私たちにとって時間とは一体なんだったのでしょうか?年老いた人たちは時間というのが何であるのかをよく心得ています。もちろんそれに限りがあることも。恐れを抱く人だっています。しかしそうあるべきではありません。なにせ精神のための時間は命の源泉となり得るわけですから。多くの人を苦しめる「老い」は本来、思い出や喜びとともに魂が星に近づいていく過程なのです。身体は生まれた瞬間から成長を始め、ある時点で衰退へと移行しますが、魂は常により高く飛翔することができます。これこそまさに生命の素晴らしさだと言えるでしょう。

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